かように善を行ない、功徳を積むのでなければ浄土往生は不可能であると考える故である。彼は自己の修めた万善万行によって、それが原因となり、その結果として浄土往生が遂げられると考える。これは理義明白である。これよりも明白な理義はない。これ以外に理義はあり得ないもののごとくである。彼の発願はきわめて真面目である。彼は自己の力のあらんかぎり善行を修め、功徳を積もうとする。彼の努力はきわめて真面目である。しかし彼が真面目であればあるだけ、彼が努力すれば努力するだけ、彼は自己の虚しさ、自己の偽りを感ぜざるを得ない。外から見れば一点の非の打ちどころのない生活にも、内に省みるとき虚偽が潜んでいることが自覚せられる。他人の不幸を憐んで物施しをする者に、自己の優越を誇り、他人の不幸を喜ぶ心が裏にないか。心において一度も窃盗をしたことのない者、姦淫をしたことのない者がない。道徳を守ることが、単に名利のために過ぎないということはないか。外においてどれほど善を行なおうとしても、悪心は絶えず裏から潜んでくる。かくして、
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「しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道をいでて、半満権実の法門にいるといへども、真なるものは、はなはだもてかたく、実なるものは、はなはだもてまれなり。偽なるものは、はなはだもておほく、虚なるものは、はなはだもてしげし。」
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と批判せられるのである。
 もとよりかくのごとき種類の人間にも弥陀は手をのべる。「すでにして悲願います、修諸功徳の願となづく。」これが第十九願である。ここに得られる往生は「双樹林下往生」と呼ばれている。双樹は沙羅双樹であって、釈迦は拘尸那《クシナ》城外の沙羅双樹の下で涅槃に入ったと伝えられる。双樹林下往生というのは自力修善の人々の往生をいうのである。しかしこの願の本旨は臨終現前とか来迎引接とかにあるのであろうか。そこにさらに何かより深い意味があるのであろうか。我々の思惟し得る限りにおいては、みずからあらゆる善行を励み、これを差し向けて浄土に往生しようとすることは、理の当然であって、それが究極のものである。これ以外に往生の道はないはずである。しかしながら、もしそうであるとすれば、はたして我々は実際に善を修めているのであるか。深く省みれば省みるほど自己の無力を歎ぜざるを得ないであろう。もとよりある者は
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