成立すると同時にそれがもともと「十方衆生」のためのものであることが理解されるのである。
ところで本願は言うまでもなく弥陀の本願である。経によれば、この仏は仏と成る前には法蔵菩薩といい、世自在王仏のもとにおいて無上殊勝の四十八の願を建て、それに相応する行をかぎりなく長い間修め、願が成就して仏と成って阿弥陀仏と称した。本願は弥陀の本願として特殊のものである。しかしながらこの仏は単に自己のみが成仏することを志願したのではなく、弘く世とともに救われんことを誓ったのである。弥陀の本願はこの仏〔以下欠〕
五 社会的生活
浄土真宗における真俗二諦論は異説の多い教義である。いま親鸞の著作に出典を求めると『教行信証』化巻に『末法燈明記』から次のごとく引かれている。「それ一如に範衛してもて化をながすは法王、四海に光宅してもて風に乗ずるは仁王なり。しかればすなはち仁王法王たがひに顕はれて物を開し、真諦俗諦はたがひによりて教をひろむ。」法王すなわち大法の王と仁王すなわち仁徳のある帝王とは相対し、真諦と俗諦との区別に相応するものである。故に真諦は仏法[#「仏法」に傍点]を、俗諦は王法[#「王法」に傍点]をいうのであり、王法は世法[#「世法」に傍点]であり、故にまた世間[#「世間」に傍点]の法が俗諦であり、出世間[#「出世間」に傍点]の法が真諦である。右の文は真諦俗諦相依の意義を顕わしたものと解される。
真諦俗諦の語がかくのごとく『教行信証』化巻において時代を勘決して正像末法の旨際を開示するにあたって、『末法燈明記』の文によって現われていることは、注目を要するであろう。すなわち真俗二諦の教義はその根源において末法思想に関係して、それ故に時代の自覚に従い、歴史的意識に基づいて理解さるべきものなのである。
すでに述べたごとく、末法時の特徴は無戒ということである。そこには道俗の本質的な区別はなくなる。賢愚、善悪、凡聖、老少、男女の区別も意義をなくする。それは聖道自力の教とは異なる絶対的な教が出現すべきことを意味している。この教は信心を根本とする教である。「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆへは罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに、悪をもおそるべからず
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