ることをあかす。」
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三 三願転入
親鸞は自己の宗教的生を回顧して次のように書いている。
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「ここをもて愚禿釈の鸞[#「愚禿釈の鸞」は底本では「愚※[#「禾/几」、420−上−2]釈の鸞」]、論主の解義をあふぎ、宗師の勧化によりて、ひさしく万行諸善の仮門をいでて、ながく双樹林下の往生をはなる。善本徳本の真門に廻入して、ひとへに難思往生の心をおこしき。しかるに今ことに方便の真門をいでて、選択の願海に転入せり、すみやかに難思往生の心をはなれて、難思議往生をとげんとおもふ。果遂の誓ひ、まことにゆへあるかな。」
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これは『教行信証』化巻に記された有名な三願転入の文である。
この文が、率直に理解するかぎり、親鸞の信仰生活の歴程の告白であることは、明らかである。それは歴史的事実[#「歴史的事実」に傍点]の叙述である。そしてこの歴史は、初め「万行諸善の仮門」、次に「善本徳本の真門」、ついに「選択の願海」という三つの過程を示している。ところでこの文を親鸞の信仰の歴史を語るものと見れば、かかる三つの転化、わけても「今ことに方便の真門をいでて」というその「今」が親鸞の生涯のいかなる年代に当るかが問題になるであろう。しかるにこれについては種々の異説がある。ある者はこの今、すなわち親鸞が「選択の願海に転入」した時をもって、彼が二十九歳で法然を師として吉水に入室した時であるとし、ある者は吉水入室以後にあるとし、ある者はそれ以前にあるとし、ある者は『教行信証』製作の当時にあるとする。しかしこの種の解釈にはいずれも無理があるところから、右のいわゆる三願転入の文を、歴史的事実とは関係なく純粋に法理的[#「法理的」に傍点]に解釈しようとする者がある。言い換えれば、右の三願転入の文を純粋に論理的に理解しようとするのである。
三願転入に深い論理があること、それに永遠なる法理があることは、我々もまたやがて明らかにしようとするところである。しかしながらその故をもって、これを純粋に法理的に解釈することは誤りである。この文は率直に受取る者にとっては疑いもなく親鸞の宗教的生の歴程を記したものであり、歴史的事実の告白である。弥陀の本願は単なる理、抽象的な真理ではない。それは生ける真理として自己を証しするのである。この証しは、この真
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