理が我々の生の現実に深く相応するということ、この現実を最もよく解き明かすということによって知られる。法と機、真理と現実、永遠なものと歴史的なものとの一致、この不思議な一致こそ我々をして弥陀の本願をいよいよ仰信せしめるものである。自己の信仰の径路を思い廻らすとき、親鸞はそれが不思議にも弥陀の三願によって言い当てられていることを驚きかつ慶《よろこ》ぶのである。かようにして化身土巻において、第十九願と二十願とについて釈意しつつきた彼は、自己の宗教的生の歴程について告白するのである。三願転入は単なる論理ではない。この論理が深く現実の中にあることを自己において見出したものが右の文である。かくして超越的なる真理は内面化されて見出されるのである。
しかしながらこの文はいわゆる客観的な歴史記述ではない。それはまさに宗教的告白である。宗教的告白は一面懺悔であるとともに讃歎である。このことは三願転入の文とのつながりにおいて、その前には、
[#ここから1字下げ]
「かなしきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた、助正間雑し、定散心雑するがゆへに、出離その期なし。みづから流転輪廻をはかるに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海にいりがたし。まことに傷嗟すべし、ふかく悲嘆すべし。」
[#ここで字下げ終わり]
と自督懺悔し、そして三願転入の文に直ちについで、
[#ここから1字下げ]
「ここにひさしく願海にいりて、ふかく仏恩をしれり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要をひろふて、つねに不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。」
[#ここで字下げ終わり]
と自督信仰している。かくのごとき告白、自己の内面的生活の記述について機械的に年代の順序を決定しようとすることは、無意味であり、少なくとも無理である。それは年代的[#「年代的」に傍点]解釈を許さない。体験と論理との一つになった文において年代を詮さくすることは無意味である。それは「詩と真実」として一層深い歴史に属している。それは歴史的意味をもたないのではなく、単に論理的意味を有するに過ぎぬのでない。それはどこまでも歴史的意味をもっている。年代的ということと歴史的ということとは同じでない。三願転入は歴史的事実である故に、それは時間的秩序をもっている。しかしかかる歴史的時間は暦の上で決定される客観的な年代的順序と
前へ
次へ
全39ページ中26ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング