人一人のしのぎなり。」蓮如上人『御一代記聞書』)、宗教はめいめいの問題である。この平等性は各人の罪の意識において成立するのである。自己の真実の姿を深く見つめた者にとって誰が自己は他よりも善人であるといい得るであろう。かく考えることはまだ自覚が足りないためである。自己の罪の自覚において超越的なもの、すなわち末法の教法に触れないためである。「末代の旨際を知り」、「おのれが分を思量せよ」と親鸞はいう。末代のいわれを知り、自己の分限を思いはかる者は、自己を極重の悪人として自覚せざるを得ないであろう。末代の旨際を知るというのは、客観的に現代が末法の時であることを知るということではない。正像末の歴史観は歴史的知識の要約でもなく、また歴史を体系化するための原理でもない。末法の自覚は自己の罪の自覚において主体的に[#「主体的に」に傍点]超越的なものに触れることを意味している。このときには何人も自己を底下の凡愚として自覚せざるを得ないであろう。弥陀の本願はかくのごとき我々の救済を約束している。如来の救済の対象はまさにかくのごとき悪人である。これを「悪人正機」と称している。悪人正機の説の根拠は末法思想である。
しからば何故に教は行なわれないのであるか。「まことに知んぬ、聖道の諸教は在世正法のためにして、またく像末法滅の時機にあらず、すでに時をうしなひ機にそむけるなり。」と親鸞はいっている。従来の教は聖道自力の教であり、これは釈迦牟尼仏の在世およびその感化力の存した正法時のためのものであって、今日末法の時代においては、この教はこの時代とこの時代における衆生の根機とにもはや相応せず、かくして時を失い機に乖《そむ》く故にこの教は衰微せざるを得ないのである。これに反して浄土他力の教はまさに「時機相応の法」である。それは末法という時機とこの時代における衆生の根機とに相応する教である。この時代と人間とのために仏は限りない愛をもって弥陀の本願の教を留めおいたのである。「当来の世に経道滅尽せんに、われ慈悲哀愍をもって特にこの経を留めて止住すること百歳ならしめん。それ衆生ありてこの経にあふものは、こころの所願にしたがひてみな得度すべし。」といわれている。道綽は『安楽集』に「当今は末法にして、これ五濁悪世なり、ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり。」といっている。もし機と教と時とが一致しないならば、
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