戒として従来の教法がその歴史的意義を喪失してしまったことを意味するのである。かくして自力教から他力教への、聖道教から浄土教への転換は、無戒時というものによって歴史的に必然である。もし単に持戒と破戒とのみであるならば、かかる転換の必然性は考えられない。そのときは破戒はただ持戒へ、従来の正法への復帰であるべきのみであろう。聖道門の自力教から絶対他力の浄土教への転換は親鸞において末法の歴史的自覚に基づいて行なわれ、これによってこの転換は徹底され純化されたのである。『教行信証』化身土巻における三願転入の自督に続いて正像末の歴史観が叙述されているということは、この歴史観に基づく自覚が三願転入の根拠であることを示すものと考えなければならぬ。三願転入にいう三願において、第十九願すなわち修諸功徳の願は自力の諸善万行によって往生せんとするものとして持戒の時である正法時に、第二十願は念仏という他力で、しかし自力の念仏によって往生せんとするものとして正法と末法との中間にある像法時に、また第十八願は絶対他力として末法時に相応するということができるであろう。
三願転入については次の章において論じたいと思う。ここではまず末法時の特徴である無戒ということに関連して親鸞の思想のひとつの特色を明らかにしておかねばならぬ。無戒ということは固有の意味においては僧侶についていわれ、元来持戒者であるべき僧侶であって戒を持することがないということを意味している。もし僧侶が無戒であるならば、彼らはいわゆる「名字の比丘」であり、本質的には在俗者と同じでなければならぬ。かくして浄土門の教は僧俗一致の教法である。この教法の前においては僧侶と在俗者とは本来平等である。単に僧俗の差別のみではない、老少の差別、男女の差別はもとより、賢者と愚者との差別も、善人と悪人との差別も、すべて意義を有しなくなる。宗教の前においてはあらゆる者が平等である。あたかも死に対しては貴賤貧富を論ぜず、すべての人間が平等であるように。この平等はもとより宗教的な平等であって、外面的な社会的平等ではない。宗教の前においては社会的差別はもとより道徳的差別も意義を失うところに宗教の絶対性がある。無戒ということの本質はかくのごとき平等性に存している。かくのごとき平等性は人間を「群衆」にしてしまうものではない。念仏は各人のしのぎといわれるように(「往生は一
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