聴衆の方を見られることがある。それは話が一段落したか、講義が終ったしるしである。二時間の講義であったが「今日は疲れているからこれでよす」と云って、一時間ばかりでしまわれることもあった。その言葉にはまたそれで私たちの心を打つものがあった。きっと先生は前夜おそくまで勉強されていたのだな、と私たちはすぐ感じることができたからである。
 先生の講義は教授風のものとはまるで違っていた。それは何か極ったものをひとに説明してきかせるというようなものでなく、ひとを一緒に哲学的探求に連れてゆくというようなものであった。たいていの人が先生の書物は難解であるという。しかしその強靱《きょうじん》な論理を示す文章の間に、突然魂の底から迸《ほとばし》り出たかのような啓示的な句が現われて、全体の文章に光を投げる。それまで難解をかこっていた読者は急に救われたかのような思いがして、先を読み続けてゆく。先生の講義もやはり同じようであった。先生の本を読んでわからなかったことが、ぽつりぽつりと講義をされる先生の口から時々啓示のように閃《ひらめ》いて出てくる言葉によって突然はっきりわかってくることがある。先生の座談が私にはやは
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