りそうであった。恐らく先生は論文を書いてゆかれるうちに、講義をしてゆかれるうちに、ひとと座談をされるうちに、初め自分に考えていられなかったような思想の緒を見出されるのではあるまいか。『自覚に於ける直観と反省』以来、文字通りに悪戦苦闘しながら先生が体系家として生長された時代に、私は先生の学生であったことを幸福に思う。先生のあの独特な講義の仕方を考えて、私は特にそのことを感じるのである。それは単に説明を与えられることでなく、先生の場合、その哲学がどのようにして作られてゆくかを直接に見ることであった。
 弟子たちの研究に対しては、先生はめいめいの自由に任されて、干渉されることがない。その点、無頓着《むとんじゃく》に見えるほど寛大で、一つの型にはめようとするが如きことはせられなかった。先生は各人が自分の個性を伸ばしてゆくことを望まれて、徒《いたず》らに先生の真似をするが如きことは却《かえ》って苦々しく感じられたであろう。こんなことをやってみたいと先生に話すと、先生はいつでも「それは面白かろう」といって、それに関聯《かんれん》していろいろ先生の考えを述べて下さる。そんな場合、私は先生に対して善い
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