鸞《ぐとくしんらん》』というような文章がある。また本居宣長《もとおりのりなが》の思想などにも共鳴を感じられるものがあるようである。先生の思想における東洋的なものは、先生自身が体得された独自のものであるというのが正しいと思う。そこに先生の哲学の新しさがある。それはゲーテなどにも通ずるところのあるものである。このごろの禅の流行に対しては、先生はむしろ苦々しく思っていられるのではあるまいか。先生の目差していられるのは独自の日本的な哲学である。しかし先生はいつも「西洋の論理というものを突き抜けてそこに達しなければならぬ」と云われるのである。「東洋の書物は修養のために読むべきもので、哲学をやるにはやはり西洋哲学を勉強しなければならぬ」と先生は若い人に教えられる。学問としての哲学をやるには西洋哲学を研究しなければならぬ、けれども哲学が単なる学問以上のものである限り、東洋思想を身につけることが大切である、という意味であろう。私は哲学における深さというものは結局人間の豪《えら》さであると考える。深さというものは模倣し得るものでなく、学び得られるものでもない。西田哲学の深さは先生の人間的な豪さに基いてい
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