行を作ってゆかれるようなところがある。その意味で先生には、すぐれたジャーナリストの感覚があるということもできる。しかし先生の如く時代に対して敏感で、時代から絶えず影響されながら、先生の如くつねに一つのものを追求している思想家は稀《まれ》である。そこに先生の哲学の新しさと共に深さがある。時代に敏感な者はとかく浅薄になる、自分に固執する者は停頓《ていとん》しがちである。先生はそのいずれでもない。生命というものは環境から限定され逆に環境を限定するものであるとは、先生がこの頃いつも述べられることであるが、それはまさに先生の哲学そのものの姿である。先生の哲学は先生独特の文章のスタイルを離れて考えられないであろう。ヘーゲルが彼独特のスタイルをもって考えたように、西田先生も先生独特のスタイルをもって考えられているのである。先生においては文章のスタイルがそのまま哲学である。そのスタイルを離れてその思想を表現することは不可能に近いであろう。
 先生の哲学には東洋的直観的なものがある。それを先生は禅から学んでこられたのであろう。しかしそれは禅からのみ来ているものではないように思われる。先生にはまた『愚禿親
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