そして世間に対しては万事控え目で、慎しみ深く、時にはあまりに控え目に過ぎると思われることさえある。久し振りでお目にかかると「何某はどうしているか」、「何某はどうしているか」と、弟子たちのことを忘れないで尋ねられる。先生は実に弟子思いである。またお訪ねすると、時にはいきなり「どうだ、勉強しているか」と問われることがある。そんな時、自分が怠けてでもいると、先生のこの一問は実に痛い。しかし先生が私どものことを心配していて下さる心の温かさがわかっているので「これは勉強しなければならん」と考えて、私は先生のところから出てくるのである。
大学院にいた頃であったと思う。或る日、今は亡くなられた深田(康算)先生をお訪ねして、例の如く酒が出て先生が少し酔ってこられた時であった、話が西田先生のことに及ぶと、先生は「西田君はエスプリ・ザニモオの多い人ですね」と云われたのを、私は今も思い出す。嘗《かつ》て私はそれについて『文芸春秋』に随筆めいたものを書いたことがある。実際、西田先生には何かデカルトのいうエスプリ・ザニモオ(動物精気)のようなものが感じられる。そしてそれが先生のあのエネルギーの根源であるように
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