例えば、有意運動はたしかに思惟を原理として有するが、それ自身はしかし思惟ではない。
二 観念[#「観念」に傍点](idea)という語によって私は、その直接の知覚によって私がその同じ思惟自身を意識している、おのおのの思惟の形相(forma)を理解する。かくてすなわち私は、私が言うところのものを私が理解しているとき、まさにこのことからその言葉によって表わされたものの観念が私のうちにあることが確かであるのでなくては、言葉によって何ものも表現することができないのである。そしてかよううにして私は想像のうちに描かれた単なる像を観念と呼ぶのではない、否、私はここでかかるものを、それが身体的な想像のうちに、言い換えると脳の或る部分のうちに描かれている限りにおいては、決して観念とは呼ばず、ただそれが脳のその部分に向けられた精神そのものを形作る限りにおいて、観念と呼ぶのである。
三 観念の客観的実在性[#「観念の客観的実在性」に傍点](realitas objectiva ideae)ということによって私は観念によって表現されたものの実有性(entitas)を、それが観念のうちにある限りにおいて、理解
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