らして、確かに真である、従ってまた或るものであり、純粋な無ではない。というのは、すべて真であるものは或るものであることは明かであり、また私が明晰に認識するすべてのものは真であることを私は既に十分に論証したのであるから。そしてまたたとい私がこれを論証しなかったにしても、少くとも私がそれを明晰に知覚する限りは、いずれにせよこのものに同意せざるを得ないということは、確かに私の精神の本性である。また私は、私がつねに、これより先、感覚の対象にはなはだしく執着していた時にさえも、この種の真理、すなわち形体とか、数とか、また算術もしくは幾何、あるいは一般に純粋なそして抽象的な数学に属する他のものについて、私が明証的に認知したところの真理をば、あらゆるもののうち最も確実なものと看做したということを想起するのである。
ところで今、もし単に、私が或るものの観念を私の思惟から引き出してくることができるということから、このものに属すると私が明晰かつ判明に知覚する一切は、実際にこのものに属するということが帰結するとすれば、そこからまた神の存在を証明する論証を得ることができないであろうか。確かに私は神の観念を、
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