]そのものがまた進歩してゆくのです。この意味で例へばヘルメノイティクの歴史、殊に聖書のヘルメノイティクの歴史を調べてみるのも有益な仕事であるでせう。すぐれた研究家ウーゼネルは、言語学者に必要なのは言葉の意識[#「言葉の意識」に傍点]であると云ひました。言葉の意識と云ふのは文法のかたくななる形式を習得することを謂ふのではありません。言葉の意識はむしろ歴史的意識のひとつのはたらき、しかもその最も根本的なはたらきの形式であると私は思ひます。言語学の課題は人間的な、殊に精神的な存在の全体の広さと深みとの上に拡がつてをる、従つて言語学は歴史科学の根柢的な決定的なる方法[#「方法」に傍点]である、と云つたウーゼネルの言葉には争ひ難い真理が含まれてゐると私は思ひます。言葉の意識が発達してゆく限り言語学上の interpretatio も決して終結することはないでせう。そして私には言語学者の行つてゐる recensio と interpretatio 或ひはクリティクとヘルメノイティクとを理解することが、歴史的意識の作用、歴史的認識の方法を理解する上に根本的な意義をもつてをるやうに感じられます。けれど
前へ 次へ
全22ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング