方法に於いて、種々の方面から、存在の意味を現はして、存在を私たちに見ゆるもの[#「見ゆるもの」に傍点]とすると考へられ得るならば、例へばアリストテレスが語法から範疇を導いたと云ふことにも深い意味があると思ひます。私たちはこのやうな思想の本当の意味を理解するために、言葉がただ読まれたばかりでなく、また単に聞かれたばかりでなく、また到るところ言葉を見、言葉に触れることが出来たギリシア、所謂「アッチカの雄弁」のギリシア、文法が生きてをり、言葉が裸のままで公に現はれて存在してゐた――私たちのギリシア人は言葉のこのやうな存在の仕方を恐らく「アレテス[#「アレテス」に傍点]としての存在」と呼んだでせう――ギリシアの生活を思ひ浮べなければなりません。言葉がひとつの生命をもち、特殊の Genie をもつてゐることに気附くとき、私が各々の民族の言葉の中にその民族の歴史が見出されると云つても、あながち無謀でもないでせう。かの天才フンボルトが、言葉は生産されたものでなく生産であり、出来上つたものでなく活動であると云つたのは、疑ひもない真理であると思はれます。そればかりでなく言葉に対する意識[#「意識」に傍点
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