は、何cmも具体的に示されてゐないと思ひます。かう云へばハルトマンの哲学は、この現象は我々の natu[#この「u」はウムラウト付き]rliche Einstellung に於ける認識の場合にはいつでも存在するものである、と恐らく答へるでせう。なるほど認識が把捉であると云ふことは私たちが自然的立場に於いて考へてゐることでせう。しかしながらそれは自然的立場に於ける抽象的な[#「抽象的な」に傍点]考へ方の上でのことであると思はれます。丁度それは私たちが認識に於いて最初現はれるのは感覚であると云ふのと同一の平面に於ける考へ方です。感覚が認識の最初のものであるとみるのは既に抽象的なことです。私が今眼を開くとき見るのは具体的な机であつて、黒の感覚ではありません。同じやうにそのとき私が考へるのは、むしろ直接に見る[#「見る」に傍点]ことは「机が現はれてをる」と云ふことであつて「私が机を把捉する」と云ふことではありません。そのときまた同時に[#「同時に」に傍点]私は私の前に自己を現はしてゐる存在に対して――言語学上の言葉を借りて云へば、――ひとつの interpretatio を行つてゐます。この存
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