在を「机」として見る[#「見る」に傍点]ことが既にひとつの解釈です。それ故に存在と解釈とは唯抽象的に分つことが出来るばかりであります。この簡単な考察によつても、認識が対象の把捉であると云ふ前提は、立場の最小でなく却つて立場の最大を意味すること、特殊の立場に於ける特殊の考へ方にもとづく認識概念を本体論の予想とすることが、ひとつの冒険に過ぎないことは明かであります。歴史的に云つてもギリシア哲学には所謂 Gegenstand にあたる存在を現はす概念はなく、存在のうち第一のもの、直接なものは何よりも「プラグマ」であつたのです。プラグマと云ふのは私たちの扱ふもの、私たちのはたらきの相手となるものです。若しさうであるならば、ハルトマンが所謂現象学を論じ、所謂 Aporetik を論ずることも、つまりは宙に浮いてゐる人形を操ることになりはしないかを私は恐れるのです。アリストテレスのアポレティクは――若しこの言葉が許されるならば、――もつと深い洞察の上に立つてゐると信じます。同じ客観主義の人でもラスクなどの方が、同じ実在論的傾向の人でもキュルペなどの方が、もつと深いものをみ、もつと力強い基礎附けをや
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