ながらこの厳しい、堂々として構へが凡てひとつの機《からくり》の上に出来てゐるやうに私には感じられるのです。――若し貴方がこの書物を既に読んでいらつしやるならば、私の謂ふ機が何であるか、直に思ひ当られることと存じます。――彼は無造作に本体論や形而上学の成立の可能性と必要性とを説きます。認識は Erzeugen ではなく、 Erfassen である。認識が把捉であるならば、把捉さるべきものが凡ての認識の前にそれから独立に成立してゐねばならず、そしてこのものは本体論的、形而上学的なものであるとハルトマンは云ひます。若しこの前提が正しかつたならば、本体論の成立の必然性も極めて手軽に証明の出来ることであるに相違ありません。しかし認識が把捉であると云ふことそのものが私たちには最も疑はしいことなのです。あらゆる立場の此方にあらうとする彼の哲学は、彼の所謂[#「所謂」に傍点]現象学に於いて現象の分析によつて、認識が実際に把捉であることを示さなければなりません。けれどそこで彼が事実行つてゐることは悉く認識は把捉であると云ふことを前提とした上での認識概念[#「概念」に傍点]の分析であつて、この前提そのもの
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