とがあります。例へばブレンターノやディルタイは、若し許されたことであつたら、どうしても逢つてみたかつた人です。ところがクーノ・フィッシェルやトレルチの家の門をくぐることは私には幾度も躊躇されたでせう。今の独逸で将来のある哲学者と云へば、多くの人がハルトマンとハイデッゲルとを挙げます。私は去年の秋マールブルクに来て、この二人に逢ひ、その講義に出たり、ゼミナールに加はつたりしてゐます。ハイデッゲルが新しくマールブルクへ来たのは私には嬉しいことでした。ハルトマンに対する感じを一口で云へば、彼は所謂「仕掛の大きい」人です。それがあるときは気取つた、あるときは芝居がかつた態度になるのは何の無理もないことでせう。講義はなかなか手際がよく、聴講者も非常に沢山あります。ゼミナールでは彼は自分の弱味をみせることを嫌がり過ぎてゐます。正直に云へば、私はハルトマンに直接学ぶやうになつてから、彼がそれほど将来のある人であるかどうか多少疑問にするやうになりました。少くとも今の私にはハルトマンの偉さが分りません。彼の著はした『認識の形而上学』もなかなか「仕掛の大きい」ものです。いかにも手際よく出来てゐます。しかし
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