ながらかの Sache とは一体何物なのでせうか。
 ハルトマンのことを書いて思はず長くなつた私は、ハイデッゲルに就いては簡単な報告だけにとどめておかねばなりません。彼は最初リッケルトの弟子であり、後にはリッケルトを離れてフッサールに就き、今はまたフッサールに対しても批評的となつて、むしろディルタイなどの考へを進めてゆかうとしてをるやうに見えます。或る日私がリッケルトと話しましたとき、リッケルトが「ハイデッゲルは非常に天分の豊かな男であるから、彼の思想はこれから後もまだまだワルデルンするでせう」と云つたのを覚えてゐます。今の独逸に於ける唯ひとりのアリストテレス学者として、中世哲学に深い理解のある人として、ハイデッゲルを推す人はかなり多いやうです。それは例へばギリシア哲学史家のホフマンからも、言語学者フリードレンデルからも私が直接に聞いたことです。ハイデッゲルは殆どあらゆる点でハルトマンの反対をなしてゐます。貴公子然たるハルトマンに対してハイデッゲルは全くの田舎者です。無骨で、ぶつきらぼうで、しかもねばり強いことは、講義にも演習にも現はれてゐます。しかしそれと共になかなか利口で、気の利いたところのあるのは面白いことです。ハイデッゲルがフッサールのフェノメノロギーから新しく踏み出さうとする出発点、この努力の目差してゐる方向を辿つてみることは私には非常に興味のある仕事でありますが、他の機会を待つことにいたしませう。
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 外国へ来た者の恐らく誰もがぶつつかるのは「言葉」と云ふひとつの不思議な存在です。日本にゐるときには外国の書物を読んでも、言葉は思想の符号或ひは伝達器であると云ふぐらゐの気持しか実際私には出て来ませんでした。ところが、こちらへ来て少しでも外国語の「言葉の感じ」が呑み込めるやうになると、私はひとつの言葉の中に生きてゐる“Genie”[#このダブル引用符はそれぞれ逆向きで、始めの方は下付]と云つたものに気が附くのです。そして私は今更ながら言葉と存在との間の密接な関係を思はずにはゐられません。前に云つたやうに、私が眼を開いてひとつの「机」を見るときにも既にひとつの interpretatio が行はれてゐるのであつて、机と云ふ言葉は私の眼の前に現はれてゐる存在の意味を現はす[#「意味を現はす」に傍点]はたらきをしてゐるのです。若し言葉がその表現の様々な方法に於いて、種々の方面から、存在の意味を現はして、存在を私たちに見ゆるもの[#「見ゆるもの」に傍点]とすると考へられ得るならば、例へばアリストテレスが語法から範疇を導いたと云ふことにも深い意味があると思ひます。私たちはこのやうな思想の本当の意味を理解するために、言葉がただ読まれたばかりでなく、また単に聞かれたばかりでなく、また到るところ言葉を見、言葉に触れることが出来たギリシア、所謂「アッチカの雄弁」のギリシア、文法が生きてをり、言葉が裸のままで公に現はれて存在してゐた――私たちのギリシア人は言葉のこのやうな存在の仕方を恐らく「アレテス[#「アレテス」に傍点]としての存在」と呼んだでせう――ギリシアの生活を思ひ浮べなければなりません。言葉がひとつの生命をもち、特殊の Genie をもつてゐることに気附くとき、私が各々の民族の言葉の中にその民族の歴史が見出されると云つても、あながち無謀でもないでせう。かの天才フンボルトが、言葉は生産されたものでなく生産であり、出来上つたものでなく活動であると云つたのは、疑ひもない真理であると思はれます。そればかりでなく言葉に対する意識[#「意識」に傍点]そのものがまた進歩してゆくのです。この意味で例へばヘルメノイティクの歴史、殊に聖書のヘルメノイティクの歴史を調べてみるのも有益な仕事であるでせう。すぐれた研究家ウーゼネルは、言語学者に必要なのは言葉の意識[#「言葉の意識」に傍点]であると云ひました。言葉の意識と云ふのは文法のかたくななる形式を習得することを謂ふのではありません。言葉の意識はむしろ歴史的意識のひとつのはたらき、しかもその最も根本的なはたらきの形式であると私は思ひます。言語学の課題は人間的な、殊に精神的な存在の全体の広さと深みとの上に拡がつてをる、従つて言語学は歴史科学の根柢的な決定的なる方法[#「方法」に傍点]である、と云つたウーゼネルの言葉には争ひ難い真理が含まれてゐると私は思ひます。言葉の意識が発達してゆく限り言語学上の interpretatio も決して終結することはないでせう。そして私には言語学者の行つてゐる recensio と interpretatio 或ひはクリティクとヘルメノイティクとを理解することが、歴史的意識の作用、歴史的認識の方法を理解する上に根本的な意義をもつてをるやうに感じられます。けれど
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