れてゐます。しかしながら私たちはなほ心理主義やヒストリスムスに陥ることなくして、しかもひとつの新しい発生的方法[#「発生的方法」に傍点]を考へ得ないでせうか。実在を fieri とみる道は論理的方法以外に不可能でせうか。ナトルプの心理学の方法が心理主義でないならば、歴史的社会的世界に成立する事実をそれの歴史的起源に還元することによつて歴史的意識[#「歴史的意識」に傍点]の根源的なる形を構成し、この意識のはたらきを純粋に記述する学問は――若しかかる学問があつたとすれば――あながちヒストリスムスとして排斥すべきでもないでせう。私は言語学者が既にこれに近い方法を、無意識的であるにせよ、不完全であるにせよ、彼等の研究の種々の方面に於いて用ゐてゐることに気附くのです。学問論は学問の歴史の研究を前提とします。この意味で、自然科学の方面ではあの尊敬すべきフランスの学者デュエム、精神科学の方面では私たちに懐しいかのディルタイが、その方法は各々異るにせよ、試みた研究を拡げてくれ、進めてくれる人の出ることは本当に願はしいことです。
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尊敬してゐる学者の中でも逢つてみたい人と逢つてみたくない人とがあります。例へばブレンターノやディルタイは、若し許されたことであつたら、どうしても逢つてみたかつた人です。ところがクーノ・フィッシェルやトレルチの家の門をくぐることは私には幾度も躊躇されたでせう。今の独逸で将来のある哲学者と云へば、多くの人がハルトマンとハイデッゲルとを挙げます。私は去年の秋マールブルクに来て、この二人に逢ひ、その講義に出たり、ゼミナールに加はつたりしてゐます。ハイデッゲルが新しくマールブルクへ来たのは私には嬉しいことでした。ハルトマンに対する感じを一口で云へば、彼は所謂「仕掛の大きい」人です。それがあるときは気取つた、あるときは芝居がかつた態度になるのは何の無理もないことでせう。講義はなかなか手際がよく、聴講者も非常に沢山あります。ゼミナールでは彼は自分の弱味をみせることを嫌がり過ぎてゐます。正直に云へば、私はハルトマンに直接学ぶやうになつてから、彼がそれほど将来のある人であるかどうか多少疑問にするやうになりました。少くとも今の私にはハルトマンの偉さが分りません。彼の著はした『認識の形而上学』もなかなか「仕掛の大きい」ものです。いかにも手際よく出来てゐます。しかし
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