れを知っているのはよいことだ、しかしそれきりのことである」。繰り返して読む愛読書をもたぬ者は、その人もその思想も性格がないものである。ひとつの民族についても同様であって、民族が繰り返して読む本をもっているということは必要だ。それが古典といわれるものである。かくの如き古典の復刻ということは出版業者にとってもひとつの重要な意味のある仕事でなければならぬ。しかしながらまたそのようなことは我々が多くの本を集めるということと矛盾しない。公共の図書館にしても個人の文庫にしても本が多ければ多いほどよいのはもちろんだ。本は道具と同じように使うべきものであるからである。そして使うということはそれを悉《ことごと》く始めから終りまで読むことと同じでない。或る本については、単にそれがあるということ、ただその表題だけを知っているということも十分有益である。尤も度々繰り返して読む愛読書をもたない人はその余の本を如何《いか》に使うべきかを学ぶこともできないであろう。本を書く者にしても、真面目な著者であれば、彼の本が少くとも二度は必ず読まれることを希望しているであろう。アンドレ・ジードも「私は再審においてのほか勝つこ
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