生でも死でも我々は西洋人のように「歴史的な」事件としてでなくて、「日常的な」出来事として経験することを求めているのである。日常的なものと歴史的なものとが区別されるところに西洋人の「歴史的意識」があるに反して、東洋人においては日常的なものと歴史的なものとがひとつである。そこに東洋的ヒューマニズムの特色があるといえるであろう。
 ソクラテスやキリストの死が悲劇的であるように、いわゆる歴史的意識には悲劇的精神が属している。ヘーゲルやシェリングなどが悲劇的精神を歴史の本質の理解の根本においたということには重要な意義がある。ところが東洋にはそのような悲劇的精神がない。ペシミズムといっても東洋のそれはこの点において西洋のそれと異なっており、したがってまたオプチミズムについても同様であると思う。私はかつて日本人には悲劇的精神がないからナチス流の政治は日本には適しないと書いたことがある。今日支那事変について「東洋の悲劇」などということを述べている日本主義者もあるが、日本主義者が悲劇的精神を説くのは日本主義の変質ではなかろうか。
 昨日田中美知太郎君が来てテルトゥリアヌスの本を持っていないかといっていた
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