なかったが、それでも田舎の知人から来たものだけにはこちらからも返しを出す。正月は田舎がなつかしい。東京には「正月」がない。
 昨夜おそくまで起きて済ませたパンフレットの校正を持って、夕方までに再校を出してもらうつもりで急いで日本橋まで行ったが、今日は印刷所では仕事をしないという。
 帰ってみると、机の上に子供が私の誕生日のために祝いの手紙と贈物のバットとを載せている。今日は私の誕生日。祝ってくれるのは子供一人だけで、「自祝自戒」のほかないとつぶやいてみる。私は以前から誕生日を祝うということをあまりしたことがない。
 いったい誕生とか死とかについての考え方も西洋と東洋とでは多少違っているようだ。ソクラテスでもキリストでも彼らの死がその思想的影響にとって大きな意義をもっているに反して、孔子のごとき場合にはその死は特別に考えられていないということは確か和辻氏なども指摘していることであるが、それは東洋人には死が問題でないというのでなく、かえって死についての考え方が違っているからだと思う。「畳の上で死にたいものだ」と我々はいう。つまり自然の死、極めて日常的に死ぬることが日本人の願望なのである。誕
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