る、滑らかだが深みがない。しかも彼らは彼らの生活が当前《あたりまえ》の生活だと無造作に考えて、もし彼ら以外の生活を生きようとする人があればふしぎに感じながら嘲笑する。彼らが本当に自分自身に生きようとする人、生命の源に立返って人生を味おうとする人、真実の要求に従って生活しようとする人が悩み、悲しみ、夢みつつあるのを見るとき、彼らは合点ができないといわぬばかりの顔をして大人振《おとなぶ》った口の利《き》き方をしながらいう、「君たちはまだ人生を知らないのだ。現実がどんなものだか分っていないのだ。」
しかしながら何故に彼らが、自分の心の奥で味うこともなく単に便宜的に観念してかかったもののみが、人生や現実やの如実の姿としてひとり妥当する権利をもち得るかは私には分らないことだ。むしろ本当に生きようとする人が体験するところのものが人生であり現実であるのではなかろうか。それらの概念の本当の意味は先入主的に決定さるべきものではなくて実際まじめに人生を生きた人によって初めて味得さるべきものである。
私はいまここに偶像を再興しようとしている。その偶像が第一にいわゆる近代人の懐疑や頽廃にどこまでも執著して
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