な心はジレッタンティズムとセンチメンタリズムとから区別されて必然的にそれらを排斥する。それはジレッタンティズムと異なってすべての経験を魂にまで持来して深く体験しようとする。またそれはセンチメンタリズムのような感情への惑溺と涙をもっての戯れとを知らない。ジレッタントが自己の才能の広さを矜り、センチメンタリストが自己の感情の鋭さを誇ろうとするとき、素直な心の所有者は只管《ひたすら》に自己の心の純粋がアフェクテイション(気取り)によって失われざらんことを恐れる。
 けれどどこにでも罪を感じ出さずにはいられない素直な心はまたやがて永遠なるもの、偉大なるものに驚き得る心、従ってそれらのものに対して信仰を有し得る心である。何物にも驚き得ない心は、私には単に貧しいものとして感ぜられるばかりでなく、むしろ非常に恐しいもののように思われる。何物にも驚き得ざる魂こそ私には本当の悪魔のように感じられる。そして驚く心こそ信仰の母である。素直な心はまたそれの永遠なるもの、偉大なるものに対する憧れと愛との無邪気と純粋とにおいて、美しき夢を夢みずにはいられない。けだし愛と純粋とはいかなる場合でも夢を生み出さずにはお
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