て彼が方法論的懐疑といわるるものの最後に到達した真理は Cogito ergo sum.(われ思う、ゆえにわれ在り)ということであった。この絶対に疑い得ないと信ぜられた真理から出発して彼は因果律を用いて神の存在を証明し、かくして最初には疑われたものを懐疑の中から救い得ることを論証しようとした。語られざる哲学の出発点もまた懐疑であるであろうか。多くの人々にとって自明であるこの事実を、私も一応は是認しなければならない。私たちが現に感じ知り欲しておるありのままの事実を、なんらの疑いもなくそのまま受容し承認する人々に、語られざる哲学のないことは論を俟《ま》たない。現実に対して不満を感じ疑いを懐くところから私たちの哲学も始るのである。懐疑はふつう征服されるものであるが、それが征服されない形でとどまる場合には、私たちはそれを懐疑主義もしくは懐疑説の名で呼んでいる。批判哲学の学徒は懐疑主義の成立が不可能なるゆえんを論じて、懐疑主義は自殺である。懐疑主義が主張されるということは、すでに真理の存在を予想するものであるという。私は批判哲学のこの鋭い批判をも承認しなければならない。語られる哲学における懐疑説
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