てのみ得られるという信念を棄てようとはしない。私はいまトルストイの『我が懺悔』の一節を引用することが適当であると思う。「私は自分の間違っていたことを知り、いかにしてその間違いができたかを会得した。私が間違いをしていたのは、私の考え方が正しくなかったというよりもむしろ、私が忌わしい生活をしていたからであることを知った。真理が私に隠されていたのは、私の推理が誤っていたというよりも、私が肉の煩悩を満足させようとして、法外な道楽者の生活を送っていたからであることを知った。」語られざる哲学が求める真理は全人格が肯定しまた全人格が喜ばしさに盈《み》ち溢《あふ》れつつ服従する生ける真理である。それは私たちにとって律法ではなくして愛の対象となるような真理である。
私は語られざる哲学の正しき出発点について最初の思索を試みようと思う。
三
有名なデカルトはその哲学の出発点に当ってすべてを疑った。単に伝統や証権やが教えるものばかりでなく自己の感官、進んでは自己の理性の指示するところのものをも疑った。De omnibus dubitandum.(あらゆるものを疑ってみなければならない)しかし
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