に遇《あ》い、貧困に苦しめられ、病魔に責められて顧みなかったところの永遠なる価値にして存在しないならば、私たちがそれらの天才者を尊敬し憧憬するということ、また彼らがなした事業、新しき真理、美しき芸術、高き思想、尊き宗教に感激し欣幸《きんこう》するということもすべて滑稽な戯れとして終らなければならないであろう。もしまたそうであるとすれば、私たちが私たちの中に感ぜずにはいられない自己の無価値や弱小や罪悪の意識ほど笑うべきものはないであろう。
完成の可能の希望は、これなくては私たちのよき生活が不可能であるようなところのものである。私たちは私たちの中および周囲において限りなき不合理と罪悪とに遭逢せずにはいられない。悲しみや寂しさは私たちの運命には必然的なものであって、私たちはそれを単に自己の表面において感受するばかりでなく、自己の本然に還って行ったときにおいてすらそこに見出さずにはおられないようなものである。まことに人生は涙の谷であって人間はその谷に生うる弱き葦である。意志が自由であるか否か、私たちは全く運命に支配されているものであるかどうかの問題は永い論争の歴史をもっておる。しかし概念上の
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