い勝利を贏《かちえ》させはしないだろう。正しき出発点をとらないものは、あたかも誤ったコースに従って走る選手である。彼が一生懸命に走れば走るほど、彼は決勝点から遠ざかりつつあるのである。カントは哲学に正しき問い方を教えたものとして、デカルトは哲学の正しき出発点を見出したものとして殊に称讃されている。語られざる哲学の問題は、一体、いかにして正しく提出され得るであろうか。
 私は二つの問題の提出の仕方をもって極めて正当なものとして挙げ得ると思う。第一、いかにしてよき生活は可能であるか。第二、よき生活はいかなるものであるか。すなわち第一はよき生活の必然的制約 conditio sine qua non としての形式の問題であって、第二はよき生活の内容の問題である。まず最初に注意すべきは、私がよき[#「よき」に傍点]生活というのは単に道徳的な生活のみを主張するのではなく、正しき[#「正しき」に傍点]もしくは美しき[#「美しき」に傍点]生活をも含めて簡単な名をもって呼んだのに過ぎないということである。つぎに何故に生活一般の形式および内容が問題とならないで、特によき[#「よき」に傍点]生活の形式と内
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