はなくして、永遠なる理想や価値や理念やに対する感激である。情緒と感激とは根本的に性質の異なったものであろうが、道徳を本能の一種と見做《みな》す心理学的立場から、それらが同一根柢にまで還元されることを許すならば、感激とは永遠なるものに関係する限りの情緒である。情緒はそれに伴う不安と焦躁とからわれわれを限りなき盲目的な運動にまで駆るに反して、感激はそれに随う安静《ルーエ》と平穏とからわれわれを光に照らされた、限りある従って完全な活動にまで赴《おもむ》かせる。それゆえに情緒の運動が自ら外部的、身体的であるに反して、感激の活動は必然的に内部的、精神的である。前者は濁れる涙を猛烈に外に注ごうとするに反して後者は輝ける涙をもって自己の魂を洗い浄めようとする。しかのみならず私が永遠なるものとよぶところのものに純粋に概念的にして論理的なる真理が含まれていることを思い、またかくのごとき純粋に知識的にして思弁的なものに対してもはなはだ高き程度の感激があり得ることを認め、もっと根本的には情緒と感激との正当な区別を誤らない人は、哲学が一方では私たちの感情的要求を決して排斥するものでなく、他方では私たちの論理的
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