かえって自己の内に還り見出される点にある。語られる哲学の根柢は語られざる哲学にある。そして語られざる哲学は必然的に虚しくへりくだる心の純粋において成立するのである。Les grands pensees[#「 pensees」の二つ目の「e」はアクサン(´)付き] vient de coeur.(偉大な思想は心情から生まれる。 ヴォヴナルグ『省察』八七)真の生ける真理を与うる哲学は語る口に見出されずして語らざる魂において成長する。哲学に関する第二の誤解はこれとあたかも反対した側面からすなわちそれがあまりに人生の実際と接近して感傷的もしくは病的になって、われわれの論理的要求から遠ざかっておるという批難においてぶっつかるものである。この考えを懐く人たちの想像する哲学者は、蒼白な顰《しか》め面をした、人生や自然におけるよきもの美しきものに無頓著な、すべての現実的に対して懐疑的もしくは厭離的になった人である。彼はやたらに涙を流す人かあるいは一滴の涙さえ涸《か》れ尽してしまった人かである。
 しかしながら私の考えるところでは、哲学者にはいかにも感情が必要であるが、それは純化され透明にされない情緒で
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