のナイビテートから出たもののように思われる。彼らは世慣れたと自称しまたそのことがたいへん立派なことであるように考えている人たちが重宝がる婉曲や紆説が、彼らの精神力の純粋とまじめと強さと相容れないものであることを無意識的に知っておる。皮肉や洒落や諷刺が無邪気で快活な心からよりも狡猾で陰険な心から生れやすく、またそれが無邪気で快活な心のものである場合においてさえ人をして往々素直に事物を観察し経験する心を曲げしめ、もしくは事物に対するまじめな態度を失わしめやすい事実を見定めることは、そして、鋭さに深さよりもいっそう多くの興味をもちたがる私たちには重要なことである。
もちろん私だって皮肉や洒落や諷刺を悉く否定しようというのではない。素直な心は微笑む快活な心であり、散文的なものよりも詩的なものを好む心であり、また人生には遊戯がなければならず、しかして遊戯は単に手段上の価値ばかりでなくそれ自身の価値をもっており、それゆえに喜劇は悲劇とともに価値があると信ずる私は、無邪気で快活な心の微笑みであり戯れである皮肉や洒落や諷刺の愛すべきことを知っているはずである。ただ私が恐れるのはそれらのものがあまりに
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