るものにぶっつかってそれへの愛は私たちをまた夢みさせずにはおかないだろう。前者を私はイデアリストと呼び、後者を私はフマニストと名づける。前者はこの世のものを超越した永遠なるものを憧れ求めようとし、後者は醜悪なる人間性の中に宿る神性を見出そうという。もしまた誤解を招きやすい言葉をあえて用いるならば、前者の態度を貴族主義、後者の態度を民衆主義とも呼ぶことができるかも知れない。私は、いやしくもよき生活を生きんとするものは必ずイデアリストかフマニストかのいずれかでなければならないと思う。しかして彼らの生活態度に共通なものの多くの中で、私はいま特に空間的生活という特徴をみて私自身の徒《いたずら》に拡りゆかんとする心を警《いま》しめたい。彼らの一人は天上を仰ぎ憧がれ、他の一人は地下に掘り入って求める。それゆえに彼らの精神の活動の領域は単に拡りと幅とをのみもっておる平面ではなく、深さをもったところの空間である。かくして健康な魂の空間における旺盛な活動によき生活はそれの本質を見出すのである。
 夢や憧れや信仰について多くを語った私は、ここにかつて非常な勢いで破壊された偶像を再興しようとしておるもののごとくに思われるであろう。なるほど、私は偶像を再興しようとしている。しかしながら私の偶像は、伝統や権威やに屈従する心が無意識的にもしくは恐れ戦《おのの》きつつ建ててそれに自らを支配させようとするような種類のものでなく、素直な心が夢みつつ創造して自由な心からそれに自らを委せようとするような類《たぐい》のものである。それは自己の外に建てられるようなものではなくて、自己の魂の堂奥に建てられるものである。それは固定した形式をもったものでなく自由に成長してゆく生きた偶像である。
 いうまでもなく謙虚にして剛健な心は、本質的に自由を求める。素直な心はあらゆる先入主見を一々自己の奥底へまで持来して吟味せずにはおかない正直さをもっている。利口な人、世故に長《た》けた人とふつう称讃されておる人たちを見るに、彼らは自ら少しの反省をなすこともなしに、人間はこんなもの、社会はこんなもの、女はこんなものなどと勝手に決めてしまい、そしてそれに協《かな》った幾つかの規矩準繩《きくじゅんじょう》を作って只管《ひたすら》にそれを実行しようとしておる。彼らの生活は要領のいいものであるが生命力がない、整っているが魂が欠けている、滑らかだが深みがない。しかも彼らは彼らの生活が当前《あたりまえ》の生活だと無造作に考えて、もし彼ら以外の生活を生きようとする人があればふしぎに感じながら嘲笑する。彼らが本当に自分自身に生きようとする人、生命の源に立返って人生を味おうとする人、真実の要求に従って生活しようとする人が悩み、悲しみ、夢みつつあるのを見るとき、彼らは合点ができないといわぬばかりの顔をして大人振《おとなぶ》った口の利《き》き方をしながらいう、「君たちはまだ人生を知らないのだ。現実がどんなものだか分っていないのだ。」
 しかしながら何故に彼らが、自分の心の奥で味うこともなく単に便宜的に観念してかかったもののみが、人生や現実やの如実の姿としてひとり妥当する権利をもち得るかは私には分らないことだ。むしろ本当に生きようとする人が体験するところのものが人生であり現実であるのではなかろうか。それらの概念の本当の意味は先入主的に決定さるべきものではなくて実際まじめに人生を生きた人によって初めて味得さるべきものである。
 私はいまここに偶像を再興しようとしている。その偶像が第一にいわゆる近代人の懐疑や頽廃にどこまでも執著して、自己の源に還って素直な心になろうとしない心には全くあり得ないものであることは明らかである。けれども第二に私の再興しようという偶像が外観上いかほど伝統や証権やの打建てたところのものに似ていようともその精神において全く異なったものであることをあくまで私は主張する。私は利己的であれというよりも人を愛せよという。けれど私は本当に自由な心から人を愛せよと説明する。少しの魂をも籠《こ》めることなくただ形式的に人を愛するがごとく振舞う人よりも私はむしろ本当に旺盛な魂をもって人を憎む人を好む。なぜなら私は怠惰ほど救済から遠退《とおの》いているものはないと信ずるから。かようにして真に自由なる人こそ私のあこがれの対象である。
 私はこれまであたかも楽しみや嬉しさの意義と価値とを全く否定してしまいでもするように、あまりに多く苦しみと悲しみとについて語ったかのように思う。しかし私の根本思想はそれとはまるで正反対の傾向をとっておる。単にそれ自身として比較するとき、私は楽しみが苦しみよりも大なる価値をもつものであることを容赦もなく承認する。あるいはむしろ苦しみは消極的の価値もしくは手段的の価値しかもっていないも
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