な心はジレッタンティズムとセンチメンタリズムとから区別されて必然的にそれらを排斥する。それはジレッタンティズムと異なってすべての経験を魂にまで持来して深く体験しようとする。またそれはセンチメンタリズムのような感情への惑溺と涙をもっての戯れとを知らない。ジレッタントが自己の才能の広さを矜り、センチメンタリストが自己の感情の鋭さを誇ろうとするとき、素直な心の所有者は只管《ひたすら》に自己の心の純粋がアフェクテイション(気取り)によって失われざらんことを恐れる。
けれどどこにでも罪を感じ出さずにはいられない素直な心はまたやがて永遠なるもの、偉大なるものに驚き得る心、従ってそれらのものに対して信仰を有し得る心である。何物にも驚き得ない心は、私には単に貧しいものとして感ぜられるばかりでなく、むしろ非常に恐しいもののように思われる。何物にも驚き得ざる魂こそ私には本当の悪魔のように感じられる。そして驚く心こそ信仰の母である。素直な心はまたそれの永遠なるもの、偉大なるものに対する憧れと愛との無邪気と純粋とにおいて、美しき夢を夢みずにはいられない。けだし愛と純粋とはいかなる場合でも夢を生み出さずにはおかず、またその夢に酔わせずにはおかないものであるからである。あまりに懐疑的であり病的であるいわゆる近代人は偉大なるもの、健康なるものへの驚きを失い、従ってそれらへの愛と信仰とをなくしておる。彼らは偉大なるものよりも平凡なるもの、健康なるものよりも病的なるもの、古典的なるものよりも特性的なるもの、深きものよりも鋭きものにより多くの興味と関心とを見出す。彼らは無邪気な心をもってものをそのまま受け容れて味うことができないで、猜疑《さいぎ》の眼を見張って一切のものを分析し批評する。彼らは一冊の書物を読むとき何がその中で永遠なるものであり、また何が自己の魂を高めることに利益し得るかを知ることを顧みないで、その内容についていかなる点が自己の能力をもって指摘し批難し得る欠点であるかを見出すことに興味と努力とを向けておるのである。彼らは深く体得することよりも鋭く批評することを喜ぶ。彼らは一篇の論文を草する場合に何を本当に自己の心で深く体験したかを発表しようとするよりも、何を自己の頭脳で鋭く指摘し得るかを誇示しようとする。(懐疑する心が何故に傲慢であるかは正当には分らないことだ。)すなわち彼らは深き心よりも鋭き頭を欲する。また彼らは一人の人に接するとき、殊に偉大なる人に対するときにそうであるが、その人において何が長所であり何が自己の魂の高揚に貢献し得るかを正しく感じ出すことをおいて、まず何がその人にあって批難さるべき短所であるかに注意しようとする。彼らは博大な心をもって人を抱擁しようとはせず、猜疑の心をもって人を排斥しようとする。しかし根本的によくないことは、彼らがかくのごとく振舞うことが、彼ら自身絶えず不安と焦躁とを経験せずにはいられないのであるのに、それだけで非常に新しい従って彼らの評価に従えば非cm豪いことのように考えて思い上っているということである。一言にしていえば彼らの心は拗《す》ねている。
けれど私たちが伸びやかな心を回復すべき時は来た。私たちの心では驚きと愛と夢とが純粋にそして健康に育たなければならない。番犬のような吠えつく心、刑事のような探る心、掏摸《すり》のような狡い心を棄ててしまって、嬰児《えいじ》のような無邪気で快活な心に還ることが私たちには絶対に必要である。そのとき私たちは偉大なるものに対する尊敬と憧憬とをもたずにはいられないであろう。そのとき私たちは他人に信頼する心を懐かずにはいられないだろう。そしてかような気持を本当に回復することができたときに私たちの生活は伸びやかであり、快活であり、また希望に輝くであろう。私は近頃特に痛切にそう感ぜずにはいられない。社会の人々がもっと正直で無邪気になっておのおの美しい夢に酔うことができたならば、私たちの社会はどれほど改善されるであろうかと。私には夢のない生活ほどつまらなく感ぜられるものはない。私は殊に多くギリシア人について好んで語った。私は何故に彼らに懐しさと親しみとを感ずるか。けだし「ギリシア人はあらゆる民族の中で生の夢を最も美しく夢みた」からである。無智や無頓着や屈従や諦《あきら》めや投遣《なげやり》から現実をそのままに受容れることをやめて、少しでも自分自身や社会をよくしようという希望と努力とがすべての人に生れてくるときに、初めて私たちは本当に人類の愛と平和とを贏《かち》え始めるのである。
私たちは地上に執着してばかりいないで天上を仰ぐかまたは地下を見透すかをしなければならない。美しい青空には永遠なるものが輝いてそれへの憧れは私たちを夢みさせずにはいないだろう。暗い闇の中にも私たちは永劫の光あ
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