とき、もしくは籠の重みが意識されずにはおられないほどに達したとき、もしくは何かの機会が彼らを思い立たせずにはおかなかったとき、彼らは自分の籠の中を顧みて集めた貝の一々を気遣わしげに検べ始める。検べて行くに従って彼らは、彼らがかつて美しいものと思って拾い上げたものが醜いものであり、輝いて感ぜられたものが光沢のないものであり、もしくは貝と思ったものがただの石であることを発見して、一つとして取るに足るもののないのに絶望する。しかしもうそのときには彼らの傍に横たわり拡っていた海が、破壊的な大波をもって襲い寄せて彼らをひとたまりもなく深い闇の中に浚[#「浚」は底本では、へんが「にすい」になっている]って行くときは来ておるのである。ただ永遠なるものと一時的なるものとを確に区別する秀れた魂を持っている人のみは、一瞬の時をもってしても永遠の光輝ある貝を見出して拾い上げることができて、彼自ら永遠の世界にまで高められることができるのである。私たちはこの広い砂浜を社会と呼び、小さい籠を寿命と呼び、大きな海を運命と呼び、強い波を死と呼び慣わしておる。かようにして私たちには多くの経験よりも深い体験がさらにいっそう価値あるものであることは明らかである。
もちろん私が経験する魂の方面のみを考えて経験される事柄を全く看却するというのであるならば、私はあたかも美学上のいわゆる形式説が陥ったと同様な誤りに陥っていることは疑いもないことであろう。いかなる障礙《しょうがい》にも負かされることなく、かえってその障礙を利用して自己を高めてゆくことを知っておる秀れた魂は、それが遭遇する経験が多く、強く、大きくあればあるほどますます磨き出されるに違いない。天才者たちは深い悲しみや苦しみを身に徹して味うことによって、彼らの魂を弥増《いやまし》に高めまた浄めるという事実を私も承認する。
[#ここから引用文、2字下げ、本文とは1行アキ]
Ein guter Mensch in seinem dunklen Drange
Ist sich des rechten Weges wohl bewusst.
(善い人間は、よしや暗黒な内の促《うながし》に動かされていても、
始終正しい道を忘れてはいないものだ。)
[#ここからポイントを小さくして地付き]
(ゲーテ『ファウスト』第一部三二八―九 森林太郎訳)
[#ここで引用文終わり]
けれどそれにもかかわらず私が上の思想を特に高調するゆえんは、多くの場合に誤解される次のような思想に対抗せんがためである。人々は自己の体験の深さと広さとを誇りつついう、「頭で考えられたことが何を知っておるか、凡てのものの本当の意味はそれを自ら体験した後に分ることだ。酒に狂ったことのない者、女に溺れたことのない者、それらの人の語る道徳に何の権威があるか。」いかにも彼らのいうとおりである。そして彼らの言葉はすべての悪を弁護し承認する贖罪《しょくざい》的な言葉としての貴さをさえ持っておるように見える。しかし静かに考えてみるがいい、彼らの言葉の裏には――そして私自身がそうでなかったとは誰も保証のできないことだ。――自分自身の悪を自己の虚栄心や自負心やを損わないために、他人に対して弁解しようとする心が潜んでいないか。あるいは無暗に新しがったり、理由もなく古いものを排斥することそれ自身が非常に偉いことと考える思想が、彼らの言葉の間に隠れていないか。もしくは悪魔の誘惑に自らを強いて試みようという心、従って神を試みようという傲慢な心が、彼らの言葉の背後ではたらいてはいないか。私が思うに彼らの言葉はただへりくだる心においてなされた深き体験の発表としてのみ意味を有するものである。私が彼らと争おうというのは言葉そのものではなく、その後にはたらいている心情そのものに関してである。酒に狂い女に溺れることそのことを悉く排斥しようというのではない。ただそれらが好奇心や敵愾心や傲慢な心において経験される限り全く無意味であり、従って非難さるべきことであるというのである。「弥陀の本願不思議におはしませばとて悪をおそれざるはまた本願ぼこりとて往生かなふべからず。」といいあるいは「なにごとも、こゝろにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども一人にてもころすべき業縁《ごうえん》なきによりて害せざるなり。わがこゝろのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべしと、おほせのさふらひしは、われらがこゝろのよきをばよしとおもひ、あしきをばあしとおもひて、本願の不思議にてたすけたまふといふことを、しらざることをおほせのさふらひしなり。」という言葉、もしくは「父よ、若しみこゝろにかなはば[#底本では「かなわば」と誤記]この杯を
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