は虚妄として、従って私たち自身も私たちの生活も、学問や芸術や道徳も虚妄としてとどまらなければならないのである。それゆえに信仰は単なる好奇心や虚栄心や遊戯本能や社交慾などからなさるべきものではなくて、私たち自身と私たちの生活と、そしてまた私たちが愛する学問や芸術や道徳などとがいたずらで終らないためにはなくてはならぬから必然的になされねばならぬようなものである。
あたかもそれが論理の正確を矜《ほこ》るものでもあるように、概念的な言葉によって現わされた上の思想が、真実は純粋な心情に本《もと》づけらるべきものであることを示すためにも、それらの概念的な言葉を私が好んで用いる美しい言葉によって書き換えることは強《あなが》ち不必要なことでもないであろう。第一の思想を私は夢[#「夢」に傍点]という言葉で現わそう。永遠なるものの存在を信ずる心はやがて夢みる心である。夢とは永遠なるものに酔う心である。不合理や悪に充ちた現実に満足せず、それを超越したしかもそれが到達すべき永遠なるものの存在を信じてそれに向って憧れる心のみが本当に美しい夢を見ることができる。第二の思想を私は素直[#「素直」に傍点]という言葉で現わそう。素直とは謙虚なそしてそれゆえに剛健な心の特質である。そして運命の前にどこまでもへりくだって絶対に他を信頼する心、自由の獲得のためにはあくまで戦って大死一番して後甦るの工夫を忘れない剛健な心、それらに対してのみ救済の完成と自由の完成とは存在する。安静と活動との美しい調和は素直な心においてのみ成就する。第三の思想を私は愛[#「愛」に傍点]という言葉で現わそう。愛とは主客の完全な合一である。しかるに私たちが絶対者を抱きまた絶対者が私たちを抱いてそこに深い合一が成立するときに初めて、私たち自身と私たちの生活とは完成に達することができ、私たちの憧れる永遠なる価値も支持者を得ることができるのである。あるいはまた絶対者は私たちと永遠なるものとの愛の媒介者である。かようにして夢と素直と愛とはよき生活が可能なるがために欠くことができない三つのものである。しかし私はもうこれ以上それらの点について語る必要はないと思う。
一〇
よき生活とはいかなるものかという私が提出しておいた第三の問題が非常に複雑であることは、一般に生活というものがいかに複雑であるかを、ちょっとでも反省してみる人の誰でもが、容易に考え及ぶことができることであろう。時処位《ときところくらい》に従って種々雑多に変化すべき具体的な生活をそのまま記述し分析し説明しようというのは全く不可能なことであり、またたとい可能であるにしても無意味なことである。私がここに試みようとするところのものが、かくのごときものでないことは明らかである。私はいま私がよき生活として想像する生活からそれの指導観念の特に重要なものを抽象して来て、それらについて思考を廻《めぐ》らすことによって私が正当にとるべき生活態度を明瞭にしたいと思う。
まず最初に注意すべきことは、私たちの生活において大切なのは、「何を」経験するかということよりも「いかに」経験するかということであるということである。なんとなれば、経験の内容とよばるるもの自身がすでに、多くの人によって誤解されておるように、固定して動かすことができないように存在しておるものではなく、これを経験する魂によって創造されるものであるからである。外面的にみて同一の事柄もこれを経験する人の心に迫る形においては種々に異なっておるのである。同一の芸術作品の前に立って観照し評価する二人の人は根本的には同一の芸術作品を観照しまたそれについて評価しておるのではない。観照はやがて制作である。大家の秘密は形式によって内容を滅却するにあるとシルレルがいったように、秀れた魂はいかに瑣細《ささい》に見える事柄にも深い意味を見出すふしぎな力をもっておる。これに反して鈍い心の所有者はどんなに大きな経験に遭逢してもこれを浸透して輝く光をもっていないから、それは彼にとって何の価値もない黒い塊に過ぎない。
私はかつてニュートンの言葉から思い出して人生を砂浜にあって貝を拾うことに譬えた。凡ての人は銘々に与えられた小さい籠を持ちながら一生懸命に貝を拾ってその中へ投げ込んでいる。その中のある者は無意識的に拾い上げ、ある者は意識的に選びつつ拾い上げる。ある者は習慣的に無気力にはたらき、ある者は活快に活溌にはたらく。ある者は歌いながらある者は泣きながら、ある者は戯れるようにある者は真面目に集めておる。彼らが群れつつはたらいておる砂浜の彼方に限りもなく拡って大きな音を響かせている暗い海には、彼らのある者は気づいておるようであり、ある者は全く無頓著であるらしい。けれど彼らの持っておる籠が次第に満ちて来るのを感じた
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