な叙述を試みたい。私と異なった立場が可能であるか、また私と別な考え方があり得るか、私はそれを知らない。もし実際に可能であり、あり得るとしても私はそれに対して反対したり、私の思想を弁護したりする権利も自由も少くとも現在の私はもっていないことを最初から承認する。
 よき生活を可能ならしむる必然的制約は、私の信ずるとおりであれば、二つに別つことができる。第一、永遠なる価値の存在。第二、完成の可能。しかしてそれらと関係してそれらに安定を与える第三のものとして、もしくはそれらを抱合する唯一つのものとして、私は、絶対者の存在を挙げることができると思う。
 永遠なる価値の存在の信仰にして虚妄であれば私たちのよき生活はあり得ない。私たちの驚嘆と畏敬とを喚起せずにはいない偉大なる科学者、芸術家、徳行家、哲学者、宗教家たちが日も夜も求めてやまなかった真や善や美や聖にしてもし妄想に過ぎないとするならば、私たちの生活も努力も畢竟《ひっきょう》無意味でなければならない。それに対する愛の純粋と熱誠とから、私たちにとっては驚異であり奇蹟であると感ぜられる天才者が、毒薬をあおぎ、十字架に懸けられ、焚刑に処せられ、追放に遇《あ》い、貧困に苦しめられ、病魔に責められて顧みなかったところの永遠なる価値にして存在しないならば、私たちがそれらの天才者を尊敬し憧憬するということ、また彼らがなした事業、新しき真理、美しき芸術、高き思想、尊き宗教に感激し欣幸《きんこう》するということもすべて滑稽な戯れとして終らなければならないであろう。もしまたそうであるとすれば、私たちが私たちの中に感ぜずにはいられない自己の無価値や弱小や罪悪の意識ほど笑うべきものはないであろう。
 完成の可能の希望は、これなくては私たちのよき生活が不可能であるようなところのものである。私たちは私たちの中および周囲において限りなき不合理と罪悪とに遭逢せずにはいられない。悲しみや寂しさは私たちの運命には必然的なものであって、私たちはそれを単に自己の表面において感受するばかりでなく、自己の本然に還って行ったときにおいてすらそこに見出さずにはおられないようなものである。まことに人生は涙の谷であって人間はその谷に生うる弱き葦である。意志が自由であるか否か、私たちは全く運命に支配されているものであるかどうかの問題は永い論争の歴史をもっておる。しかし概念上の
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