れの全体に向い得る直観においてのみ正当になされるということである。かようにして個性と個性との理解は、語られる点においてではなく語られざる点において深き根柢を見出すがごとき理解である。
九
心情の純粋を貴んで体系の完全を尊ばないこの一篇にもなんらかの統一と連絡とが必要であるため、私は最初この一篇に三つの問題を特に重要なものとして課しておいた。すなわち、第一、語られざる哲学の出発点は何であるか。第二、いかにしてよき生活は可能であるか。第三、よき生活とはいかなるものであるか。第一の点についてはすでに考えた。もし語られざる哲学があらゆる問題が遺さるることなく論ぜられ、しかしてそれが十分な連絡をなすことすなわち体系の完全を求めるのであるならば、もしまたそれが精密な論理と証明とによって人を説服しようというのであれば、私がいまここに考察しようとしておる第二の問題、すなわちよき生活の必然的制約としての形式の問題は、最も厳密な論証をもって詳細に論議されることを要する問題であるかも知れない。
しかしながら語られざる哲学が、概念的知識においてではなくてよき生活においてそれの枢軸を見出し、またそれは巷に売らるべきものではなくて自己の中に蔵せらるべきものであるとしてみれば、私はこの問題について長い論述を試みることはさほど重要なことではないと思う。なぜならば第一に私は、歴史上多くの思想家によってしばしば互に反対し批難しつつ論ぜられたこの困難な問題に関して、すべての人が承認するか否かを問わないにしても、私自身の主張をそれらの反対や批難の唯中に持来して立入って論ずることは、勢い私を抗弁的ならしめて私の態度を不純にしはしないかを恐れるからである。しかのみならず第二に私は、この問題の解決は結局は合理的にではなく非合理的において、あるいは論理にではなく信仰において与えられ、しかしてかくのごとき生ける信仰は単なる概念的思惟によってではなく、実際によき生活を生きることによって得られるものであることを確信するがゆえに、私のように貧しく醜く生きて来た者がそれに関して長々しい論議をなすことは、畢竟《ひっきょう》無意味なことでもあり、また不遜なことでもあると考えるからである。私は私の病的なるものの中に微笑む健康への憧れのよきアーヌングに従ってへりくだる心を保ちつつ、つつましやかに私の思想の最も簡単
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