運命などということが結局征服されてしまうことができるか否かを私は知らない。唯一つ私が知っているように思うことは、寂しみや悲しさや運命ということが本当に何を意味しているかは、私たちが生血《なまち》の出るようなまじめな努力をしてそれらを滅ぼそうとした後において初めて理解されることである。単なる概念についてではなくそれらの本質に関しての論議はそれから後になされなければならない。
現実にあくまで執著しようとするものとそれを超越して永遠なるものを把捉しようとするものとの二つの魂の対立に関係して、私は私の衷に外へ拡ろうとする心と内へ掘ろうとする心との対立を感ぜずにはいられない。一は私の中に住む詩人であり他は私の中に宿る哲学者である。私の詩人はどこまでも延びて行って感覚の美しき戯れの観照に酔おうとしている。私の哲学者はあくまで深く掘り下げて行って闇そのものの真理を認識しようとする。前者は感覚的なるもの、特性的なるものの美しさに憧れ、後者は意志的なるもの、普遍的なるものの真理を求める。一は快活であり他は憂鬱である、一は冗舌であり他は沈黙する。私を知れる人は私についていろいろ異なったもしくは全く反対した判断を下した。一人はいう、「君は学究である、君から最初受ける感じはどうしてもプロフェッサーだ。」他の人はいう、「君の根本の素質は詩人だ。」あるいは一人は私を理性的だといい他の人は感情的だという。あるいは一人は私を利口な男だと考え他の人は向不見《むこうみず》だと思っている。また次の人はいった、「君は本当に伸び伸びと素直に育っている。」さらに他の人がいった、「君は全くフライ(自由)な人だ。」私は私に関してなされたこれらの多くの判断について、どれが正しく、どれが誤っているか、いずれがお世辞であっていずれが正直な批評であるかを区別することができない。そのどれでもが正しいようでもあり、またその悉くが誤っておるようにも思われる。ただ私が知っていることは、一個の個性はパラドキシカルな言葉を用いるならば一人の人間であって、同時に数人の人間として互に相対立し矛盾し衝突する心をもっておるものであること、個性はこれを分析したり抽象したり記述したり定義したりするときは、それの個性としての特質を失ってしまうこと、それゆえに個性の説明は終局は「AはAである」という同一命題以上に出でることができず、個性の評価はそ
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