を持ち来たすことは不可能である。それに多くの場合私は自己の思いあがっている自負心を傷つけないために、他人によく思われたいという虚栄心を損わないために、もしくはどんな行為でも弁解するような知識を示そうというために、自分自身の行為を弁解していた。しかしながら弁解は知能や弁舌においてではなく、ただ精神と行為とにおいてのみ成功するところのものである。絶対にへりくだる心とそれから出たよき行為とのみが雄弁に弁解することができる。
 私は傲慢にも神を試みようとはしなかったか。私は強《し》いて罪悪に身を委せようとする偽悪家を気取ったことはないか。自己の性格の強さを試さんがために私は好んで誘惑に近づいたことがなかったか。好奇心や敵愾心《てきがいしん》から無理に苦い酒に酔ってみようとはしなかったか。しかるに神を試みようという傲慢な心は、自ら求めて接触した悪魔の誘惑に反抗する剛健な心であることができたろうか。
 かようにして私は私がかつて経験したまた現に経験しつつある一々の感覚、観念、感情、意志のすべてを、詳細に吟味して行くに従ってそれのあるものは立派に神の装をしておるにかかわらず悪魔の象徴であることを発見した。あらゆる明るさが闇への方向を含んでおり、あらゆる色彩が黒への傾向を示しておるように、私の一切の経験が悉《ことごと》く悪によって染められておることを発見した。しかしながら罪を感ずる心はまたやがて神を求める心でなかろうか。罪悪深重、煩悩|熾盛《しせい》の私たちがあればこそいよいよ仏の大悲大願のほども知られるのではなかろうか。闇を闇として感ずる心は光を見た心である。罪を罪として知る心は必ず神を知れる心でなければならない。私たちの魂はイデアの世界に生れてイデアの世界を知っておればこそ、身は肉体の牢獄の中にありながらイデアの世界を憧れ求めることもできるのである。私の中に失われないであるすべてのものに驚き得る心、現実の憂愁の間にはるかなるものを微笑みつつ夢み出すことができる心、白髪の長く伸びた苦悩の中に生きている快活な幼な心、それらは悉く神の姿の象徴、少くとも神への憧憬として考えることができないであろうか。私たちが経験する世界にあまり多く存在する不合理や罪悪のゆえに私は神の存在を信ぜざるを得ない。私は自己の衷に深く感ずる必然の運命のゆえに永遠なるものを希求せずにはいられない。寂しみや悲しさや
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