退けていた女に盲目的な本能のために近づけられて、夫ある女と通ずるという最も忌わしい罪悪にまで陥ろうという危機をやっと脱することができたのは誰であったか。
虚栄心や利己心や性的本能が、あるときは私を呵々大笑させ、あるときは私を沈黙と憂鬱とに導きつつ私の生活を落着のない、流るるような自由と快活とを失ったものにしていたのは事実であるが、他方においては傲慢な心から発した弁解する心と神を試みる心との二つの心が私の生活を激越な、安静のないものとした。煩悩具足の私たちは罪を作らずにはいられないような状態にいる。いかに熾烈《しれつ》な善を求める心でもこの世界では悪を全く避けることができないような有様である。私たちは本当に弱い葦のようなものだ。Es irrt der Mensch,so lang er strebt.(人は努めている間は、迷うに極ったものだからな。 [#ここからポイントを小さくする]ゲーテ『ファウスト』第一部三一七 森林太郎訳[#ポイント下げ終わり]) しかしながら真に罪悪といわるべきものは、私たちの悲しい運命が私たちを陥れずにはおかない罪悪そのものよりも、かかる罪悪を小賢《こざか》しい智恵を弄して弁護し弁解しようという傲慢な心である。メフィストフェレスが人間を嘲笑《あざわら》っていった言葉、
[#ここから引用文、2字下げ、本文とは1行アキ]
Er nennt's Vernunft und braucht's allein,
Nur tierischer als jedes Tier zu sein.
(人間はあれを理性と謂ってどうそれを使うかというと、
どの獣よりも獣らしく振舞う為めに使うのです。)
[#ここからポイントを小さくして地付き]
(ゲーテ『ファウスト』第一部二八五―六 森林太郎訳)
[#ここで引用文終わり]
は、かくのごとき弁解するこましゃくれた[#「こましゃくれた」に傍点]智恵を指していったものであろう。何故に私たちは私たちの罪を素直にそのまま受け容れることをしないで、それを見苦しい態《ざま》をしながら弁解しようなどとするのだろう。なぜ素直な心の安静をすてて傲慢な心の焦躁を求めているのだろう。自己の行為の騒々しい弁解は、それが正当になさるべき権利をもっておる場合においてすら、決して相手を十分に説服することができないばかりでなく、自分自身の心にも平和
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