行為の裏においてさえせせら笑いをしていなかったか。猜疑と嫉妬とが私の心から全然放逐されていると保証してくれる人があるであろうか。媚《こ》び諂《へつら》う心から生れた親切や同情やを私自身において経験しなかったといえようか。人に矯《あま》えるような愛、人に強《し》いるような愛、人を弱くしようとする愛、人をたかぶらせる愛、それらが私の生活になかったといえるか。私が最も純粋な愛としたものにおいてさえ、それが自己の優越の感じに擽《くすぐ》られようという動機によって濁らされていなかったと誇り得ないではないか。純粋で従って快活でありやすい友人や隣人に対しての愛において、すでに利己心や憎悪心や諂諛《てんゆ》や傲慢がそれの明るい拡りゆく自由さを失わせていたとすれば、婦人に対する愛や交りが本当に純潔であろうなどとは誰も信じないことである。私は二人の女において恋愛の関係に立ち、数人の女に対してそれに近い気持を味って来た。私の性的が動いて暗い影をそれらの恋愛や交際に蔽い被せた。かつて私を支配したデカダンがそれらにおいて頽廃の飽満を求めた。私の気紛れ、芝居気、皮肉、洒落《しゃれ》が強いて作った快活さが、エロティッシュの気味の悪い微笑《ほほえみ》や悩める本能の醸した暗く寂しい憂鬱と混って、非常に複雑な醜悪をそこに合成した。愛するものによって自己の魂を高めもしくは愛するものの魂を純粋に成長させてゆこうとする心よりも、愛する者によって自己の醜い心に媚びもしくは愛するものを誘惑して自己のところまで引きおろそうとする心が私の中に勝ってはいなかったか。常に否定する精神メフィストが私を征服して走せ廻ってはいなかったか。引込思案な臆病、小賢《こざか》しくて功利的な知恵、それよりも根本的には私を善良な青年とみていた世間の評判が、ただ私を不道徳の実行者にならしめないのみであった。
けれども積極的に善をなさないのは必然的に消極的には悪をなすことではないか。世のいわゆる悪をなさずまた積極的に善をなすこともない無気力で怠惰な精神よりも旺盛な心をもって悪に向って活動する精神の方が秀れているとはいえないだろうか。悪魔は怠け者より神に近いに相違ない。ただ悪魔が神になれないのは彼は悪を矜《ほこ》って、へりくだる貧しき心を欠いているからであろう。私は幾度となく娼婦の姿を胸に抱いたのではなかったか。十八の夏初めは正しい動機から
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