は私を悩しく醜い活動にまで追いやるとともに、他方では私の純粋な魂がなそうとする活動を妨げようとする。私の太い血管を勢いよく循《めぐ》る血の快さが、私の清く正しき心に気持のよい寝床を与えている。
私は傲慢な態度をもって他の人々を蔑みつついった、「君たちは虚栄心に支配されている。金銭や名誉が何になるのだ。本当に自分自身に還って生きない生活は虚偽の生活に過ぎない。」なるほど、私のいうことは言葉どおりには正当である。けれども私の言葉にはそれを生かす魂の純粋が欠けていた。「たといわれ諸※[#「※」は「二の字点」、「々」と同じ、面区点番号1−2−22、61−13]の人の言葉および天使の言葉を語るとも、もし愛なくば鳴銅《なるかね》や響く※[#「※」は「金へん+「秡」のつくり」、第3水準1−93−6、61−14]《にょうはち》のごとし」といわれたように、それがいかに正しく、よく、美しき言葉であり忠告であったにしても、もしそれが謙虚な心と愛とから出たのでなかったならば、結局無意味なことであるに相違ない。
しかしながらさらに悪いことは、そういう私自身がいっそう強く虚栄心に燃えていたことである。他人の眼にある塵を見て自己の眼にある梁《うつばり》を見ないのか、私はこう自分自身に向って叫びたい。財宝や栄爵を虚栄として退けた私は、自分の書物が広い世界において読まれ、永い時代に亘って称讃されることを求めはしなかったか。華美な住宅、贅沢な衣服、賑かな交際、騒しい娯楽が私が耽ることを好んだ空想の中に織り込まれることはなかったか。金銭や爵位やを卑んだ私の言葉の間には、自分がそれらのものを得る能力がないという自覚から生れた嫉妬の心がひそかに潜んではいなかったか。否、否、自分の知らないことを知っているかのように語ったり、自分の感じないことを感じているように話したり、自分の欲していないことを欲しているように告げたりすること、要するに自己の魂の奥底において体験しないことを口にするのがそもそも虚栄を求める心ではないであろうか。おまえの良心がおまえを叫ばさせずにはおかないまでおまえの唇に迫るまで、おまえはへりくだり虚くして待つがいい、そのときこそおまえは権威ある人として語り出でることができるであろう。
私は殊に多く愛について自ら考えまた人に教えた。けれど私の利己心や他を憎む心が私が愛から出たものとして考えた
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