解決が最も困難な問題が必ずしも実践上の解決が最も困難な問題であるというのではない。決定論と非決定論との囂《かまびす》しい論争は、よき生活を実際に生きた人の体験においてはなんら疑うべき余地もないほど明瞭にまた容易に解決されておるのである。それは終局は語る論理においてではなく、語らざる魂において解決を求めねばならぬデリケイトな問題である。ところが意志が自由であるとするならば、その自由な意志の活動によって、もしまたそれが決定されておるとするならば、その決定から救済するものに縋《すが》ることによって、私たちが終には絶対の完成に到達し得るという希望が空しいならば、私たちのよき生活もまた無意味もしくは不可能とならなければならない。自己の精進によるにせよ、他力の救済によるにせよ、もしくは聖道《しょうどう》の難行によるにせよ、浄土の易行によるにせよ、私たちの魂が最後の完成に至ることができないとすれば、私たちの活動や生活は全く意義を失わなければならない。
 永遠なる価値を憧れ求める文化的生活は、それがいかに永い過程を経なければならないにしても、結局は自然的生活を全然征服するかもしくは自己の中に抱擁してしまわなければならない。生活への意志は最後には文化生活への意志にまで転生しなければならぬ。自然を駆逐しもしくは包摂して自己の領域を次第に拡げてゆく文化の歴史は、つまりは文化の絶対の支配への到達を可能ならしめるようなものでなければならない。美しき魂の憧憬とそれへ向っての精神とは決して空しくして終ることができない。もしそれらのことにして本当に不可能であるとするならば、私たちの生活は破壊され否定されてしまうのである。自由の完成、あるいは救済の完成は一般にそれがなくては私たちの生活もあり得ないところのものである。
 けれど私たちの永遠なる価値の信仰と完成の可能の希望とが空しくないためには、それらに最後の安定を与えるものとしての絶対者が存在しなければならない。絶対者とは、けだし、永遠なる価値の創造者にして支持者であり、また私たちの生活においてまたによって自己を顕現し私たちを最後の完成にまで可能ならしめるところのものである。かくのごとき絶対者をあるいは神とよびあるいは仏とよび、理性といいあるいは価値意識というは人々の自由である。ただかかる絶対者にしてなんらかの意味において存在していないならば、すべて
前へ 次へ
全57ページ中40ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング