クラスの雑誌が次男であった。私たちの学友区で出した「南風」が三男であった。斑気《むらぎ》な次男がまず死んで、剛情な長男が次に斃《たお》れ、意気地のない三男は神経衰弱にかかって活動を中絶した。けれど最初は三人の子供はともに豪い元気だった。私たちはただ文学が分り文学をやるということだけの理由で自分たちを何か特別に秀れた人間ででもあるように考えて、しきりに霊感《インスピレーション》と早熟《プレコシティ》とについて、それらをあたかも私たちが本当にもっておるものであるかのように語り合った。当時流行していた文学者の名とそれらの人々の著作とが秩序もなく私たちの話題に上った。世紀末の懐疑と頽廃とが私たちを誘惑した。私たちは古典的なるものの大さと深さ、健康と完全とよりも特性的なるものの珍しさと鋭さ、病的と奇形とにより多くの興味を見出した。心理的個性に目覚めてなにより第一に自我を他と異なったものとして感じまた主張する時代、自己の周囲に漂う雰囲気を真の自己と思い誤る時代、それらのことよりもいっそう根本的には虚栄心と功名心とが内向的な活動を忘れさせて限りを知らぬ外向的な運動に駆る時代が私の中学時代の後の二年間を占めていた。いわゆる近代人が私をひどく誘惑していた。けれどもそれにもかかわらず私が徹底的な近代人であることができなかったのは、もちろん私の魂の底に湛えた見透すことができない意志の憂鬱の本能的な感覚がそれらの特性的なものに全然の満足を見出し得ないことを感じたに因るであろうが、一面から見れば私の活動性が作った私の趣味の広さが私をその危険から救ってくれたのだともいうことができる。私は小説を書き、戯曲を試み、批評を草し、感想を物し、歌を作った。私はボードレール、ヴェルレエヌ、ワイルドなどとともにウォーズウォースやミルトン、マーテルリンクを読み、フローベルやモーパッサンのためにソフォクレス、シャックンタラなどを忘れなかった。しかのみならず、私の心は寂しく悲しくする意志と感情との強さのゆえにかえって明るく快活にする知識を求めずにはいられなかった。私は哲学的学科の書物ばかりでなく、自然科学上の述作をも漁《あさ》っていた。H先生に一T一回ずつ漢詩の添削をしていただいていた私が、生命論に関する医学上の書籍を読んだといって何のふしぎもないはずである。私の情意の直観的な識別力と広袤《こうぼう》を求める私の
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