先生からいただいた結構な俳号の「怯詩」は、私の友だちが私を呼びかけるときの綽名としてとどまって、私はかつて自らこの号を用いたことがない。その後中学の二年の頃私は友人に頼んで「柳蔭」という号をつけて貰ったが、それも私は用いることをあまり好まなかった。私自身が本当に文学に対して要求を感じ、そして時には自分で文学者になってみたいと考えるようになったのは、やはり同じ中学二年の時国語のT先生が副科に蘆花の『自然と人生』を読んでくださった時に始るといっていい。それと同時に私の乱読時代が始った。次第に深く目覚めつつある性的に伴う憂愁の悩しい活動がそれと結合した。T先生に親しんでいた友人があるとき、私にこういった、「T先生は君をたいへん有望なものに思っている。君はきっと立派な文士になれるといつも私たちに語っている。」自分の中に動く深い憂愁がある方向を求めようとするもののように、いたずらな活動に自らを苦しめているような状態にあった私は、その言葉に動かされずにはいられなかった。それに耽読《たんどく》していた雑誌や新刊書が虚栄心を唆《そその》かさずにはいなかった。私は創作家になろうと決心した。しかしながら統一のない衝動的な運動に限りなく駆ろうとしている盲目的な意志と、私の心の表面に明るく動く小賢《こざかし》い智恵とが、その時分私が創作を試みることを妨げていた。功名心の焔が輝いて私の性格の奥に宿っている闇の海への沈潜を征服してしまった頃、T先生は私の中wを去って鹿児島へ移られた。私の虚栄心が自分自身を試みることを欲していた。私は鹿児島へ手紙を書いて、私がはたして文学者となる資格があるか否かを訊《き》いてやった。いまから思い廻らしてみれば、私はその手紙で私の大きな功名心が満足されることが確実であるかどうかを尋ねているにほかならなかった。T先生からさっそく返事が来て、私はこれまで大抵の場合には君と同様な問に対して「お止めなさい」といった、しかし君の場合に限って私は「おやりなさい」とお勧めする。君の才能と君の家の資産とが君を文学者にするに十分であると私は信ずるから、と書いてあった。
私の創作時代が始った。私は私の周囲にいくつかの廻覧雑誌を次から次へともって行った。文学好きの仲間が作っていた「サブライナ」の後を承《う》けて私が中心となった「海妖《アヤカシ》」が最初に生れた。四年級の者でこしらえた
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