向へ導いてくれるに相違ない。)
さて、あたかも私が楽しみを絶対に排斥するかのごとく見える理由は次の通りである。楽しみは多くの場合私たちを不まじめにする。それは私たちを事物の表面に軽く触れてゆくことに満足させてそれの内奥へはいって行って深く体験することを忘れさせる。それは私たちの反省の強さを失わせ従って私たちの性格の根強さをなくする。それは私たちを徹底と努力と活動とに励まさないでかえって不徹底と無気力と遊惰とに導く。けれどそれにも関せず私が楽しみに多くの価値をおくところの理由は、それが素直な心を成長させやすいことを思うからである。豊饒《ほうじょう》な土地に卸《おろ》された種が伸びやかに生長して美しき花を咲かせやすいように、よき周囲の状態に置かれた心は純粋にまた正直に育って行って美しき夢を結びやすい。それは博大と自由との心に親しみやすい。かくして私の結論は次のような形をもって表わされても差支えないように思われる、私は楽しみを欲する、けれど弱小な楽しみよりも偉大なる苦しみを求める。しかしそれよりも以上に偉大なる楽しみを喜ぶ。あるいは私は偉大なる苦しみを尊敬し、偉大なる楽しみを憧れる。
素直な心は拗《す》ねることを知らないから、それはまたナイーブで率直である。それは純粋と無邪気とを貴ぶがゆえに、皮肉や洒落《しゃれ》やあてこすりがそれらのものを失わせはしないかを恐れる。自分が本当に感じたり考えたりしたことを率直にいったり行ったりするナイビテート(素直さ)によき魂の特質は見出される。率直な心の力は自己の利益や便宜を顧慮したり世間の思わくに躊躇《ちゅうちょ》したりすることによって妨げられることを嫌うどころか、それらのものを全く顧みないところの強さをもっておる。それゆえに自分自身の利便を擲《なげう》って恐れず、時には自己の身命をも棄てて顧みない人の心において初めて、素直なもしくはナイーブで率直な心は成立する。私は私が尊敬し憧憬する多くの天才の思想や生活を考えるとき、常に彼らの単純さや率直さ、あるいは彼らのナイビテートを思わざるを得ない。彼らのある時には憎らしく思われるほどの、言行の大胆さや図々しさは、多くの人、殊に事物の外形のみを見てそれの本質に探り入ることを怠っている人によって誤解されておるように、彼らの傲慢な心から出たものではなくて、むしろ彼らの単純さと率直さ、あるいは彼ら
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