のナイビテートから出たもののように思われる。彼らは世慣れたと自称しまたそのことがたいへん立派なことであるように考えている人たちが重宝がる婉曲や紆説が、彼らの精神力の純粋とまじめと強さと相容れないものであることを無意識的に知っておる。皮肉や洒落や諷刺が無邪気で快活な心からよりも狡猾で陰険な心から生れやすく、またそれが無邪気で快活な心のものである場合においてさえ人をして往々素直に事物を観察し経験する心を曲げしめ、もしくは事物に対するまじめな態度を失わしめやすい事実を見定めることは、そして、鋭さに深さよりもいっそう多くの興味をもちたがる私たちには重要なことである。
 もちろん私だって皮肉や洒落や諷刺を悉く否定しようというのではない。素直な心は微笑む快活な心であり、散文的なものよりも詩的なものを好む心であり、また人生には遊戯がなければならず、しかして遊戯は単に手段上の価値ばかりでなくそれ自身の価値をもっており、それゆえに喜劇は悲劇とともに価値があると信ずる私は、無邪気で快活な心の微笑みであり戯れである皮肉や洒落や諷刺の愛すべきことを知っているはずである。ただ私が恐れるのはそれらのものがあまりに多く繰返されるとき、事物を素直に見る心と事物にまじめに対する態度とを失わせやすいことである。私が求める快活や微笑や戯れは、いつでも健康な生命の活動から自ら流れ出るところのものである。

     一二

 個性とは傲慢な心には知られないようなものである。それは反省のみが与《あずか》り得る知識であり、しかして反省は謙虚なる心においてのみ可能である。限りなきへりくだりをもって自己の正しき姿を観じまた他の人々を尊敬し愛するとともに、どこまでも剛《つよ》く健《すこや》かな心の活動をもって本当に自己の衷に見出されたものを維持し発展することができる人は、真に個性の何たるかを理解することができる。個性の真の認識は心理学の知識ではなくて反省の知識である。そしてそれゆえに個性の正しき認識は概念をもってしては十分に現わすことができない闇そのものに関する真理の一部分に属しておる。徒《いたずら》に外に向って内に向うことを知らない人、無暗に他人に対抗しようとして自己に還ることを忘れた人、それらの人に対しては個性の理解の扉は堅く閉されておる。なぜならば真に自分自身を理解しない人が他人の個性を理解し得ようなどとはと
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