ののように思われる。私は私たちが最後の完成に達する日すべての苦しみと悲しみとが征服されており、あらゆる人間性が美しき解放を得て円満に調和し、福と徳とが完全に一致すべきことを信ぜずにはいられない。それにもかかわらず私が特に苦しみと悲しみとを高調するゆえんは、一方では現実の人間性がいかに不完全にして罪悪に充たされておるかを感ぜざるを得ず、他方では世のいわゆる楽しみがいかに多くの悪の根源となっておるかを見ざるを得ないからである。私たちが尊敬する体験深き人々が幾度となく繰返しておるように、私たちは徹頭徹尾罪をもって汚された弱く小さいものであって救済を要求せずにはいられないようなものである。いやしくも真に生きようという人は自己の醜さを悲しみ嘆かずにはいられない。あるいは逆に苦しみ悲しむ人はまじめであることができるのである。そしてまじめな人のみが本当に自己を反省することができ、従ってよき生活を生きることができるのである。現実の人生はそれの本質上からいってまじめなものは苦しみを感ぜずにはいられず、苦しみを感ずるものはまじめにならざるを得ないのである。しかのみならずかくのごとき本質的な罪苦の意識ばかりでなく、世間の人々がふつう苦しみといっておるものでさえ、私たちをまじめにすることができる。病気、死、災難、不幸などを経験させられるとき、傲慢な心も謙虚にかえり、無反省な精神も反省的となり、外向的な人も内向的となり、遊惰な人間も活動的となる。要するに苦しみは人をまじめにならしめる。そして苦しみの価値は主としてここにある。しかしながら私たちはその反面の事実を見|遁《のが》してはならない。いかなる苦しみにも堪《た》え忍びつつ、自己の精神を向上せしめる偉大な人々においてはもちろんあり得ないことであるが、矮小《わいしょう》な私たちの魂にあっては、多くの事実が示しておるように、あまりに多くの悲しみや苦しみは私たちの心を曲げさせ、拗《す》ねさせ、卑屈にし、猜疑的にするB要するにそれは素直な心を伸びさせない。私が襲って来るかも知れぬ苦しみに対して恐れ戦くのは主としてこの理由からである。(けれどいっそう徹底的に考えるならば、恐れ戦くということがすでに間違っているのかも知れない。運命はすべてを知っているはずだ。そして私たちの良心はいつでも、私たちがもしそれに従うことを厭《いと》わないならば私たちを正しき方
前へ
次へ
全57ページ中51ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング